先週末、北大図書館に寄ってマックス・ウェーバーの本を2冊借りてきた。ウェーバーと言えば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を四苦八苦しながら読んだ。宗教社会学というあまりなじみのない分野の論文なのだが、その歴史観とか論理の展開に興味を持った。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はまだとても読みこなせていないのだが、ウェーバーはどこか面白いという感覚だけが心に残っていて、まずは入門本から読んでみようと思ったのだ。

他方、放送大学の心理学の勉強の中で、「心理学史」をやっていると、18世紀から19世紀に「心理学」といえるものが成立したことがわかった。これはウェーバーが活躍した時期とほぼ同じである。なぜ同じ時期なのかということに興味を持った。

西洋史には「暗黒の中世」という言葉がある。教会の権威が強く、学問が教会に閉ざされてなかなか発展しなかった時期のことである。それがやっと16世紀頃から変化を始め、18世紀ころから現在に至るまであらゆる学問が花を咲かせることになった。とざっくり言ってしまうことが出来る。

要するに、18世紀から19世紀というのはそういう新しい学問がどんどん生まれた時期であって、ウェーバーの宗教社会学にしても心理学にしてもその時期に生まれたといって過言ではないのだ。

面白いのは学問の姿勢だ。西洋には古代ギリシャの文明時代があって、それはそれなりの高度な文明であったから、あらゆる学問はその歴史から始めねばならない。古代に基礎を置いて、その文明との違いを明確にしなければ学問とは言えないらしい。このような学問の姿勢はニッポンにはないように思う。それはやはりあらゆる学問が基本的に明治以降に西洋から輸入されたものであって、学問の方法論も西洋にならっているからなのだろう。

しかし、ニッポンにも歴史はあるのだ。古代から輸入学問が主流だったとはいえ、それをニッポン流に解釈し、使いこなしてきたことは歴史そのものであろう。比較的新しい輸入学問であっても、ニッポンの歴史観によって学問するということもできなくはないのではないか。

そういうアプローチを取らないと、何時まで経っても西洋の真似事から抜け出すことはできないのではないか。僕のそんな疑問の裏返しが近代西洋史への興味に向かっているということなのだと思う。

一つのことを学ぶと幾つもの疑問が生まれてくる。それらをひとつひとつ学べばさらにたくさんの疑問が生まれる。学ぶということは際限がない。それが学問の魅力というものなのだ。

二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語 (新潮文庫)
長部 日出雄

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