“つぶやく”だけで漱石も一葉も読めなくていいの?:日経ビジネスオンライン
筆者はその昔、書店の現場で10年ほど働いていました。そのとき店頭で――もう20年ほど前になりますが――大学生であろう女性から、こんな問い合わせを受けたことがあります。
「樋口一葉の『たけくらべ』の翻訳ってないですか」
「え、樋口一葉は古文じゃなくて、普通の日本語だったよな」と内心思いつつ出版の有無を確認して、
「申し訳ありません、原文のものしか出ていないようです」
と答えると、その女性は残念そうに帰っていきました――。
今から思い返せば筆者は、時代の重要な転換点を、このときに見逃していたのかもしれません。つまり、この頃から日本人は「古文や漢文が読めない」から「古文調や漢文調がきつい文章も読めない」に移行しつつあったということです。
確かに明治や大正の頃の文章は読みにくいと思う。だけどさすがに「たけくらべ」を「翻訳」しようとは思わない。
言葉は時代につれて変わっていくもので仕方がない側面もあるけど、現代風に「翻訳」してしまったら原文の持つムードというかその時代の空気みたいなものがなくなってしまうような気がする。
まあ、そういうムードみたいなものを味わうというのは趣味の範囲といえるかもしれない。しかし問題は現代風のしゃべり言葉だけだと語彙が乏しくなってしまうことなのだ。古い言葉には難しい概念を表現するものがある。身の回りの見えるものだけを表現するだけで楽をしていると思考能力が弱ってしまうのだろう。
多少難しいと思ってもたくさん読んでいくうちに慣れてしまうものだ。今は「青空文庫」だってある。どんどん読んでいろいろ考えてたくさん書いて良い頭を作っていきたいものだ。
Stanzaというソフトを導入してiPod touchで本を読めるようにしてみた。
なかなか快適だ。
ホントは縦書のリーダーが欲しいけどとりあえずは満足。

この人の文章(正確には翻訳だけど)を最初に読んだのは、「伽藍とバザール」という有名なもので、「ノウアスフィアの開墾」、「魔法のおなべ」も一気に読んでしまったものだった。
知っている人は知っていると思うけど、今の時代にはちょっと珍しい人で、書いた文章をこんな宣言をして大量に公開していたり、「プロジェクト杉田玄白」といういろんな外国の文章を翻訳公開するなんてことをやっている。
文体はカジュアルというか言文一致スタイルで、かなり辛辣なことを書いたりしているから、好みは分かれていると考えられるが、僕は好きだ。
この本は、これまでに彼が書いてきた(ネットに掲載してきた)文章をまとめたもので、たぶんここの どこかには載っているものだと思う。でもまあ、こうやって文庫本になっていれば携帯性が良くなってありがたい。伽藍とバザールなんか、無理してPDAにダ ウンロードして読んだりしていたものだが、本という完成された形にはまだまだだということを思い知らされたものだった。
本の中身が僕にとってどれくらいおもしろかったかは、上の写真の本にピラピラとついた付箋で想像してもらいたい。あとでどこかで引用してみたいと思うような文を見つけたところだ。例えば、
し かし、鎖の強さはそのいちばん弱いリンクに規定される。鎖全体を強化しようと思えば、いちばん弱い部分を補強すべきなのであって、いちばん強いところを一 層強くしても何の役にも立たないのである。これを人間に当てはめれば、強い脳を強化するツールは、人間としての能力(つまりは生産性)の向上には役立たな いのではないか、ということになる。
要するに脳力をサポートするものより腕力をサポートするものを開発・強化したほうが人間の総合的な能力の向上に役立つのではないか、なんてことが書いてあったりして、なかなかおもしろい視点だと思ったりするわけ。
この人が翻訳した文章の量は尋常ではない。CODE VERSION 2.0みたいな分厚い本も書店にある。こういう辛辣だったり堅かったり難しかったりする本ばかりではなく、「不思議の国のアリス」もあったりするところが面白い。
本じゃなくても読めるまとまったテキストがたくさんあるというなんともありがたい人だなあと思うのである。
要するに (河出文庫 や 20-2)
山形 浩生


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僕がコンピュータの勉強を始めて間もない頃、「人工知能」という一種のバズワードが流行していた。
当時の人工知能は今のソフトウエア技術の水準からすれば未成熟なんてレベルにも達しているものではなく、今考えればRDBとSQLの組み合わせよりも幼稚なことしかできない知能であった。
数値ではなくテキストや論理を扱うLispとかPrologのような言語が「人工知能言語」としてもてはやされ、新しいプログラミングパラダイムとしてのオブジェクト指向が芽を出した頃だった。
僕はこのバスワードに夢中になって、LispやPrologの書籍を読み漁っていた。人工知能というキーワードに関係する書籍はかたっぱしから読んだりもしていた。
まだ誰でもコンピュータを使える時代ではなく、言語も自由に手に入る時代ではなかったから、そのころはプログラミングよりも本を読んでいろいろ考えを巡らせることが主体の勉強だった。
そんな僕の頭にふと思い浮かんだのが、以下のような疑問だった。
「間違えるプログラムは作れるのだろうか?」
もちろんプログラミングされた「間違い」は間違いのうちに入らない。それはプログラミング的に正しい答えを出しているだけのことだ。人間のように間違えるプログラムとはどんなものなのだろう?と思ったのだ。
この疑問は今でも頭の隅にあるのだが、要するにプログラムの一種の限界に対する認識なのだと思う。
この疑問を言い換えると「計算可能」ということになる。現時点でのITがソフトウエアの囲みの中にいるうちはこの「計算可能」な世界に止まることになってしまう。バーチャルな世界にのみ突き進もうとするIT世界はそこから逃れることはできない。
では、「計算可能」な世界から逃れるためにはどうしたらよいのか。それはITと現実の世界との接点をもっと密接にし、ソフトウエアの世界で常識となっている限界に甘んじることなく現実世界を拡張するITを目指していくことなのだろう。
そういう意味でITアーキテクトは「計算不可能性」を設計する存在でなくてはならない。
IT 技術者は自己完結しがちで、現実との接点が希薄になる傾向がある。そこから脱却するには、ひたすら「現場」と接しながらそこで行われていることをITで進 化させる必要がある。そして、そのアーキテクチャは社会学的な知見なくしてはまともに設計ができないのだから、社会学的な批判にさらされて鍛えられる必要 がある。
社会学者である宮台真司の言葉は高度に抽象化されて理解しにくいが、彼が発する疑問に対して答える神成淳司の言葉はITの現場の現実に裏付けられてわかりやすい。社会学的な問題意識をもってアーキテクチャを設計しつづけているから的確な答えが返せるのだ。
とはいえ、一度読んだだけでは理解できない本である。
ただ、ITとは単にコンピュータ活用ではないはずだという僕自身の問題意識に対して、回答のある方向を示してくれたように感じる。
さらに学ぶべきことが増えた。そういう意味で僕にとって得がたい本である。
計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)
神成 淳司 宮台 真司


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