“つぶやく”だけで漱石も一葉も読めなくていいの?:日経ビジネスオンライン
筆者はその昔、書店の現場で10年ほど働いていました。そのとき店頭で――もう20年ほど前になりますが――大学生であろう女性から、こんな問い合わせを受けたことがあります。
「樋口一葉の『たけくらべ』の翻訳ってないですか」
「え、樋口一葉は古文じゃなくて、普通の日本語だったよな」と内心思いつつ出版の有無を確認して、
「申し訳ありません、原文のものしか出ていないようです」
と答えると、その女性は残念そうに帰っていきました――。
今から思い返せば筆者は、時代の重要な転換点を、このときに見逃していたのかもしれません。つまり、この頃から日本人は「古文や漢文が読めない」から「古文調や漢文調がきつい文章も読めない」に移行しつつあったということです。
確かに明治や大正の頃の文章は読みにくいと思う。だけどさすがに「たけくらべ」を「翻訳」しようとは思わない。
言葉は時代につれて変わっていくもので仕方がない側面もあるけど、現代風に「翻訳」してしまったら原文の持つムードというかその時代の空気みたいなものがなくなってしまうような気がする。
まあ、そういうムードみたいなものを味わうというのは趣味の範囲といえるかもしれない。しかし問題は現代風のしゃべり言葉だけだと語彙が乏しくなってしまうことなのだ。古い言葉には難しい概念を表現するものがある。身の回りの見えるものだけを表現するだけで楽をしていると思考能力が弱ってしまうのだろう。
多少難しいと思ってもたくさん読んでいくうちに慣れてしまうものだ。今は「青空文庫」だってある。どんどん読んでいろいろ考えてたくさん書いて良い頭を作っていきたいものだ。
PocketWiFiを持つようになって二ヶ月弱。どんなことが変わったか考えてみる。
僕のPocketWiFiの相棒はiPod touchとEye-Fiを入れたIXY920IS。たまにEeePCだ。
まず、ケータイの使用率が激減。特にパケットを使わなくなってしまった。ある程度予想できたことではあるのだが、その主たる原因は二つ。
- ケータイでのテキスト入力が嫌になったこと。iPod touchでのフリック入力を習得してみたらこれが案外快適で手早く入力できるのだ。キーを何度も押しての入力はやっていられない。
- Eye-Fiでデジカメの写真をどこからでも自宅PCとかクラウドに送れるようになったこと。以前は写真をアップロードする手段としてケータイを使うことが多かったのだが、ケータイの写真は解像度とか圧縮率とかいろいろ不満なことが多かったのだ。
というわけでケータイはほぼ通話専用になってしまった。
次にはクラウドっぽいサービスを多用するようになったこと。ネットがどこでもつながればローカルにデータを持つ必要はホントにないのだなあと思う。iPod touchをはじめ家の中でも複数のPCを使うことがあると、もはや各々のマシン上にデータを置くのはナンセンスだとつくづく思う。
今は写真を撮ったらEye-FiとPocketWiFiの組み合わせですぐにFlickrに送ってしまうので、写真をPCに転送するとか保管するということを全く意識しなくなってしまった。ブログ記事に写真を使うときはFlickrを参照する。テキスト書くときはPCでもiPod touchでもその場で便利だと思うものを使えばいい。
ここまでならiPhoneでいいような気がするんだけど、これにノートPC(ネットブック)が入ってしまうとPocketWiFi構成の勝ちなのだ(^^)。
で、結論。ケータイになんでも入れようという考えはすでに古い。ネットワークハブを中心により高機能な複数デバイスを持つのがこれからの主流。ってことですな。
去年の暮れにNintendo DSの生活リズム計を買ったのをきっかけに、散歩の習慣が身についた。今は昼休みにも毎日30分以上歩いている。
すると妙なところに影響が出ていることに気づいた。
僕のケータイの契約はパケット定額ではない。ケータイの機種も古くなっている。だから使い方が抑制的になる傾向があるのだが、この数カ月、さらに使わない傾向が強くなった。
この原因のひとつが散歩だった。
お昼に散歩をする時に、無線LANスポットのある場所を通る。そこでiPod touchを使ってメールを同期したり、ちょこっとtwitterを使ったり、VOAのPodcastをダウンロードしたりしてそれを聞きながら歩く。お昼にこういう時間があるのでケータイでいろいろ情報を見るのが費用的にもったいないと思うようになったのだ。iPod touchと比べると格段に操作性が劣るケータイでなにかするのが億劫になってしまったというのもある。
問題はブログの更新で、iPod touchにカメラがないのが痛いと思うようになった。出先で写真を撮って投稿というのは僕にとってブログを更新する上で大きなウエートを占めるものなのだが、ケータイを使うのが料金的にも機能・操作的にも辛くなってきてしまったのだ。
ならiPhoneとはいかないところが厄介だ。冷静に考えると必ずしもリアルタイムにブログを更新したいわけではなくて、材料を揃えて少し考えてなにか書くというスタイルが僕にはあっているような気がするから、iPhoneではコストとのバランスが悪い感じなのだ。
というわけでできればiPod touchにカメラがついたらなあと思うのだけど、やっぱり無理だろうなあ。
今度のiPhoneに何かスゴいクールななにかがあったらちょっと考えるかもしれないけど、キャリア変えるのはやっぱり無理だ。
イーモバイル+Eye Fi(だっけ?)+デジカメ+iPod touchってのはこれまた無駄の多い重装備だしなあ。僕にとってはiPod touchにカメラがベストだなあ。。。
せっかく散歩で面白いものを見つけたりすることがあるから、自分的に合理的な装備が見つかったらまた行動が変化すると思う。
新しいものがどんどん出るのにいつもままならない気分になるのはどうしてなんだろう。。。
Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?
ということで、今日のメッセージは「宿題を手っ取り早く終わらせるためにググってコピペするのはかまわないが、あくまで確信犯としてやってほしい」ということ。特に仕事でネットを使う時には、ネットにはでたらめな情報・勝手な意見があふれている、ということをキチンと認識した上で使いこなしてほしいということ。
難しい問題に直面したときに、自分で考える前にまずググって答えを探してしまっていませんか?ネットで見つけた解決方法をろくに考えずもせずに採用してしまっていませんか?
Googleのお世話になりっぱなしだから、ちょっとだけギクリ。
まあ、さすがにまるまるコピペってことはないし、ググった結果を元に何か書くときにはできるだけ自分なりに解釈しなおして表現する努力はしているつもりだけど、考えているようで考えが浅くなってしまうってことはあるような気がする。
もう一歩深く考えることを心がけよう。
「学びほぐす」こと。一度覚えた知識を意識的に忘れて、学び直すこと。
たくさんの知識が本当に自分の血肉となるためには、アンラーンが必要なのだな。そうすることで新たな知識が自分の中に生まれてくる。
「初心にかえる」なんて言葉もつながりのある言葉かもしれない。
コンピュータのプログラミングでも同じようなことをすることがある。いろんな技術要素を調べながら盛り込んで半ばカオスになったとき、一旦それまでのプログラムを捨てて最初から作り直す。するとそれまでに集めた技術要素がより有機的につながったロジックが生まれてくる。ここで大事なのはすでに動いているカオスなプログラムを思い切って捨てることで、これがアンラーンにとても近い感覚なのだと思う。
子供の脳の発達過程で、すごい勢いで物事を覚えていく時期を過ぎて、一旦それらが忘れ去られたようになる時期があるという話を前にテレビで観たことがある。どうもその間にシナプスの結合が整理されるらしい。たぶんその過程で脳は一段高い段階に昇るのだろう。
そう考えると、アンラーンは人間の脳の自然な働きなのかもしれない。
某全国紙に掲載されるはずだった秋葉原通り魔事件のコメント – MIYADAI.com Blog
今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。
僕自身の学歴はたいしたことはないのだが、どちらかといえば専門性を目指してきて、自分で進路を決め、悩みながら自分の目指した道を突き進んできた方だと思う。
会社に入ってからいろいろ紆余曲折はあったけれど、今はずっとやりたいと思っていた仕事を自分で考えてやることができるようになった。まあ、人と比べればずっと遅いかもしれないが、義務教育を終えるころに持った当時はほとんど荒唐無稽だった夢を、ずっと実現性が高い形で追いかけることができているのは幸せだ。
僕の両親は別にいい学校に行けとは言わなかったし、いい会社に入れとも言わなかった。僕が自分で決めた進路に進むことを喜んでくれただけだ。
そんな僕がずっと不思議に思っている事ことがある。
まずは大学生に対して、なぜ勉強しないのかということと、なぜ勉強した分野を活かすことができる仕事につかないのか?だ。
もちろん、望んだ仕事につくのは難しいことだ。就職氷河期なんて時期もある。しかし、果たして就職するまでに自分が本当にやりたい世界を作ることができているのだろうか?
就職してから、「自分さがし」を本気でやっている人がいるというのにも驚いた。単なる流行語だと思っていたからだ。いい大人が自分のやりたいことがわからないなんてと思っていたのだ。
本当にやりたいことがあれば、やるべきことはそんなに多くないものだ。そして、その選択肢にがむしゃらに向かっていくしかない事が多い。そこで得た体験から自分の夢は強化されもする。要するに夢があればあとは自然に努力してしまうもので、自分がわからないなんて悠長な事は言っていられない。
僕の場合、夢の種は機械に興味を持つ幼い頃の僕に母が言った「エンジニアになったら?」という言葉だった。その言葉を核にしてひとつのテーマが夢となり、今は曲がりなりにもエンジニアと名乗って夢を追う自分がいる。
まずは夢の種を与えられるかどうかが親に課された最大の課題だ。そこに「いい学校・いい会社・いい人生」を与えるなんて、なんと怖ろしいことをするのだろうと思うのである。
たぶん僕は世間からちょっとズレたところをずっと歩いてきたのだろう。だから、昔も今も「いい学校・いい会社・いい人生」というのには違和感があるし、そういうことを平気で言う親たちを不思議な感覚で見ていた。逆に言うとそういう感覚のギャップのようなものは解っていたし、だからこそやりたいことをやるなら多少は苦しい道を歩かなければならないということも体感してきた。
だから上記の記事を読んでちょっとびっくりし、またなるほどと思ったのは、時代と自己または自己が身を置いている世間の感覚のギャップを未だに感じ取ることができない人々が教育界や親にまだまだ多くて、「いい学校・いい会社・いい人生」を本気で信じているということだった。子供たちが学校に通うようになって僕が感じつづけた違和感の根もそういうところにある。
少々冷たい言い方なのかもしれないが、「いい学校・いい会社・いい人生」なんて存在しない世の中で、どうやって生きていくかは結局のところ自分で考えるしかないということ、そしてそうやって考えながら生きていけるということが幸せだということをなんとしても伝えていきたいと思った。
神成淳司 – SHINJO Atsushi on the web | 皆が嫌いなIT業界?
ちなみに、この、独自のリアリティがIT業界において実存している状況について、私自身は、少し批判的である。そのような状況が、IT業界を狭めていると思うし、私自身が良く問題視している、「IT業界と他業界との溝」の要因にもなっていると捉えているからである。
なんとなくわかる。
どの業界にもある程度存在することかもしれないが、僕が感じるのは業界関係者のITに対する無力感ではないかと思う。妙な専門意識とも言えるかもしれない。
コンピュータというのは万能の機械のイメージを持ちながらできることは仮想の世界をなかなか出ない。最近は組み込みの世界が広がってきて、現実との接点が広がりつつあるが、それでもネット上で繰り広げられる一種の自己満足的なサービスがいかにも新しいというような幻想が未だに漂っている。
よく考えてみると、これらのサービスの大半は、世の中の大半の人々にとって未だにまったく無関係なものだ。一部の人々には熱狂的に受け入れられていて、それを使えることが一種のエリートであるような錯覚を持っている。しかし現実の世界を動かしているのはそれらのサービスではなくて、実際のモノを作ったり動かしたりしている人々であって、その乖離感に苛立ち、密かな劣等感を感じて世捨て人のようにITの山奥にこもっているのがIT業界人の姿のような気がするのだ。それが「IT業界の独自のリアリティ」なのではないだろうか?これは早々に変えていかないと「まっとうな業界」には脱皮できないだろう。
別の角度から見る。
IT業界の「新3K」と言われるような状況は現実に存在する。ただし、これを旧態依然とした業界体質とか雇用環境にのみ原因を求めるのは少し違う。現場を見れば個人主義と自己満足が仕事の効率を下げている側面があり、それは古い業界にはあまり見られない傾向である。
どんな仕事もキレイなだけでやりきることはできない。それはIT業界も同じだ。しかし今までは「独自のリアリティ」で避けて通ってきた。ごく皮相的な例をあげれば、なんだかよくわからないカタカナの肩書きで自己満足的に仕事をして、なんとなく格好良さそうに見える。しかしそれで現実の問題を避けて通れるかといえばそんなことはありえない。実際には「泥のように」働かざるを得ない。避けた結果として満足感なき疲労感が残る。たぶんそれが「新3K」の正体だ。
世捨て人が寄り集まってまちまちな方を向きながら嫌々仕事をやっているから3Kになる。それをすべて(企業のマネジメントなどの)リーダーシップのせいにする精神なら、ワークスタイルや職業を変えてみたところで同じことなのだ。
これは実はIT業界に限った問題ではないのかもしれない。悪い意味でも先端を行っているのがIT業界なのかもしれないのである。そういう視点で見れば、「IT業界の独自のリアリティ」を克服できれば、世の中に変化をもたらすかもしれない。逆説的だが、IT業界はそういう社会的な観点からもなかなかおもしろい業界なのではないか。
こういう一段高い視点で見られる自分を磨くためには「泥のように働く」ことも必要だ。それが3Kにならないためのカギは、つきなみな言い方だが正真正銘の自分の「夢」を持つことなのである。
「ダビング10」が一時凍結、情報通信審議会で事実上決定:ITpro
地上デジタル放送のコピー制限を緩和する、いわゆる「ダビング10」の開始延期が事実上決定した。2008年5月13日に開催された情報通信審議会 情報通信政策部会 デジタル・コンテンツの流通の促進等に関する検討委員会において、複数の委員が延期やむなしとの見解を示し、大筋で了承された。新たな開始日は決まっておらず、当初6月2日としていたダビング10の実施日は白紙に戻り、文化審議会における私的録音録画補償制度の見直し論議が決着するまで、事実上棚上げになりそうだ。
ふーん。そう。って感じだ。
補償制度と交換条件だっていうならダビング10やめてもいいんじゃないかな?
実運用を想像してみると、利便性という観点ではダビング10ってなんにも制限緩和になっていないもの。
よく考えると、僕はVTRすらろくに使っていない。たまに録画することがあっても観ないことのほうが多い。だいたい録画予約の手順が未だに覚えられなくて、いつも家人にお願いしたりしているくらいだ。
しかし、こう言っている僕は家族の中では一番テレビを観ているほうなのだ。ということは、ウチにはテレビがなくてもいいのかもしれないのだな。いや、ゲームするときはいるか。でもそれなら地デジ対応じゃなくてもいい。
だからダビング10は本当にどうでもいいので、ぜんぜんやらない私的録音録画とやらにお金を取るのはやめてほしい。
ただ、こういう悶着をずっと続けてくれれば、たぶん動画サイトでタダでなんでも観られる状態が続くから、それはそれで便利なんじゃないかと思ったりはする。で、いずれそれが徐々になしくずし的に容認されるようになれば晴れて自由の身だ。
音楽はCDでコピーし放題を維持してくれるんなら今までと同じようにメディアに補償金というのはあってもいいと思う。堂々とレンタルCDを録音して聴くことができるってことだ(論理的にはそうなってしまうと思う)。
ネットでのダウンロード販売では、僕の場合、iPod touchで流行りの楽曲を買おうとしてDRM付きだから買うのをやめたことが何度もある。宇多田ヒカルはDRMフリー版を躊躇なく購入してしまうんだけど、同じ値段でDRM付きの他のアーティストの楽曲をみると「すごく高い!」と感じて購入ボタンを押せなくなってしまうのだ。もちろん楽曲の良さとは無関係なんだけど、そう感じてしまうのは不自然ではないと思う。僕はわりと衝動買いをする方だから、こんな変な障害がなかったらさっさと購入して何度も聴いて、もっとそのアーティストのことを好きになっていたかもしれない。これ、機会損失ってやつだ。
地デジ系デバイスにしても音楽にしても僕ひとりが買うか買わないかなんてたいした問題じゃないと思うけど、一部の「権利者」とやらがこういう僕のような購買行動を過小評価しているとしたら、ビジネスを真面目に考えているとは言えない。まあ、そもそも一部の「権利者」とやらはビジネスなんか考えてないのかもしれないけど、そういうセンスがないから今の不毛なやりとりになっているのだ。
ビジネスを健全に成立させる意志を持った方がみんなの利益になると思うんだけどなあ。
日本ブランド – 債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら
よく、日本は労働生産性が悪い、効率が悪い国だと批判されますね。OECDの統計などでも労働生産性が15位とかだったりする。でもちょっと待って欲しいんですよ。それ、お金に現れるものだけで量っている訳で、お互い信用がベースでスムースにお金のやりとりができたり仕事が任せられるという、「信用」というポイントには全く考慮されていません。
ブランドというのはまさに信用なのですね。
日本はいたるところでこの「信用」というのが生きている。それが「日本ブランド」というわけですね。
これがなきゃ自販機だってあんなに蔓延ってないでしょうね。1000円札入れるのはよく考えたら怖いもの。
労働生産性という観点で考えさせられることは、お店に人がいないというやつ。潰れかけたダイエーなんかがそうなんだけど、家電売り場とか店員がいなかったりする。広い売り場に数ヶ所ある勘定場まで行って忙しそうな店員を呼ばなきゃいけない。歩いて行く間に購買意欲が70%に減退して、レジ打ってる店員見たらさらに50%に減退。やっぱりやめておこうかな?ということが何度もある。たぶん在庫にからむ費用でかなりのロスが出ているだろうからなんでそんな売り場置いとくのかわからないが、きっとあれだけ人件費削っても労働生産性は低いのは想像できる(だって売れてないから)。労働生産性を上げようとしても上がらない。そこで頭に浮かぶ言葉は「貧すれば鈍す」。
逆に小売で自販機売上入れて計算したらかなり生産性が高いってことになるんじゃないだろうか?値引きもせずに売れていくなんてまさに夢の機械だからね。
日本ブランド、それは信用力、お互いが信頼できる社会力にあるということを再認識して欲しい、と思う今日この頃であります。それだけに許せんぞ、吉兆。
同感!
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