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旅に関する主張

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著者になりたい人をITの基本からサポートする読書と編集のにゃおです。

読書と旅というのはわりと相性がいいと思っています。11月に出かけるためにレンタカーを予約して、ちょっと旅について考えたことをつらつらと。

至高の旅とは

いろいろ議論はあると思うのだが、僕にとって至高の旅は「阿房列車」である。内田百閒の旅だ。ぜひ読んでほしいと思うが、多分旅の好みは様々で、どこがいいんだろうと思う人も多かろうと思う。

では、これに似た旅はないかと考えたら、最近なら「水曜どうでしょう」でやっていた旅のシリーズがとても似ているのだ。

阿房列車では、基本的に駅と列車の中と、着いた先の旅館の様子(宴会含む)が中心である。観光地のことはほぼ書かれていないに等しい。だいたいなにかぼやいている。これをそっくり飛行機と車と旅館に取り替えれば「水曜どうでしょう」になる。

僕は度は目的地を定めないのがいいと思っている。とは言っても便宜的に目的地を定めざるを得ない事が多い。その点、「水曜どうでしょう」の「ここをキャンプ地とする」は百閒先生を上回る旅の出来栄えを示す名言である。

旅は移動中が全てである。窓の外を眺めていようが寝ていようが歌っていようが、移動しているときが楽しい。だいたい目的地にあるものはつまらない。たまに意外と良かったということがあるが、それはひとつのラッキーに過ぎない。

では目的地があったら?

目的地や、目的のあるものは旅とは言わない。出張である。

例えば最近、僕は伊勢神宮に参拝することを計画していた。実はこれすらスケジュールが曖昧で旅らしさを醸し出そうとしていたのだが、出張なのである。日頃のお礼を言いに行くお仕事と言ってもいい。出張だから悪いということはない。用事があるのだからそこへ行くわけで、とても大事なことなのであるが、これを旅とは言わないのだ。

旅とはセレンディピティを求めるものである。これを最大化しようと思ったら、先に計画するのはいけない。家を出て石ころに躓く(今どき石ころなんてそんなに転がってないかもしれないが)のもセレンディピティである。計画するとその可能性がどんどん小さくなってしまう。

セレンディピティは人生を豊かにする。

心配じゃない?

それは心配である。一寸先は闇。それを楽しめるのが豊かさというものだろう。これが自分が手に負えないレベルの治安の良くない地域に行くのだったら、のんびりしたことはとても言っていられない。旅ができる、というのは世の中のいろんな助けに守られる体験をすることでもある。活かされていることを体感することである。

幸い、今の日本はさほど何も持たず、目的地を定めずに動き出したとしても、結構なんとかなる社会である。「何も持たない」のレベルは各自が決めればよい。

事前に情報はあまり入れておかないほうがいい。行ってみたら何もなかったでもいいじゃないか。

だからといって貧乏旅行をしろというのではない。乗ってみたかった車をレンタルして、豪華なホテルに泊まって、美味いものを食う。それでいい。そうしようとすると少なからず計画ということが入ってくるが、それはそれ、仕方がない。乗ってみたかった車がなかったら次善の車を選ぶ。泊まるホテルが多少高くて少しサービスレベルが低いところに止まらざるを得ないときもまあいいかと思う。まずいものを食べるのも一興。という感覚が大事なのである。そのとき盛大にぼやくことを楽しむ。そういう旅でありたい。

めんどくさい

というわけで、僕のイメージする旅はちょっとめんどくさい。だから一人で出かけるのがいい。道連れがいればもっといいが、それはなかなか望めない。そういう意味でいつも茫洋とした山系君がいる百閒先生は羨ましい。4人で旅する「水曜どうでしょう」は素敵だ。と思うのである。

という僕はかなりの出不精である。旅には憧れるが実際にやるのは「出張」である。これもまあ仕方がない。

適当に方向だけ定めてとにかく果てまで走る。そんな旅が精々なのである。







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nyao

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本を書きたい人にITの基礎から学んでもらって、Kindleで著者デビューするまでをサポートします。 ITってよくわからないという人のために勉強会をやっています。 「読書と編集」という屋号でお仕事をしています。

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