著者になりたい人をITの基本からサポートする読書と編集のにゃおです。
少しっていうか、結構昔かな?
昔の話
まず、「伽藍とバザール」っていう文献がある。翻訳されてそろそろ20年になるらしい。
なかなか長くて、事情を知らない人にとっては読むのが大変かもしれないけれど、今はわりと当たり前になっている(が、まだいろいろ議論がある)、オープンソース開発について書かれた文献である。
が、議論の根幹にあるのは、要するに「著作権」の問題である。
昔はコンピュータを作る企業の中で粛々とソフトウエアが開発されていた。しかし、インターネットが普及すると、オープンなアーキテクチャの上にオープンなOSが載せられ、オープンにアプリケーションを作るということが可能になった。
企業の中で粛々と開発されたソフトウエアは、当たり前にCopyrightを宣言していて、一応は保護されることになっている。
しかし、インターネットの世界では企業が開発した技術を、全く別にスクラッチから書き起こしてオープンにするということが行われた。これは微妙だ。概念はそのまま利用しているが、書かれたソースコードは全く違うのである。
書籍と異なるのは、ソフトウエアが動作するものであり、互換性を維持する必要があるものであり、接続性を担保する必要があるものだということである。だから、概念を著作権の保護対象にしてしまうとコンピュータ技術の発展を止めてしまうことになる。
そういう背景があって、先人は議論を重ねながらできるだけソースコードをオープンな権利に移行していった。そういう偉大な判断があったからこそ今便利にインターネットを使うことができているのである。
もちろんオープンにしていない企業もあるが、今はそういう商用のソフトウエアはオープンなソフトウエアでほとんど代替できてしまう時代になった。
そして、開発コミュニティもオープンなものになり、世界中の優秀なエンジニアがソフトウエアの開発に参入し、今や企業も過去のオープンソースの上に立脚していることを自覚していて、優秀なソフトウエアを安価に、時には無料でインターネット上に流通させている。有名なインターネット企業はオープンソースに貢献するエンジニアを破格の待遇で雇用し、そのままオープンソースへのコミットをさせている。
大切なことは、あらゆる技術はその前にあった技術を利用して成り立っているという考え方である。ゼロから生まれるものはめったにない。
で、二次創作はどうなのか
「二次創作」という言葉はとても不思議な言葉である。二次というからには一次がある。しかし、よく考えてみると、世の中に流通するあらゆるドキュメントはほとんど二次創作ではないだろうか?
ある時、突然「著作権」というものを考え出した天才がいた。創作をお金に変える仕組みである。これがあるおかげでメディアというものが発展したのは事実である。そして、この独占的権利は野放図に拡張されてきた。
結果的に、二次創作という言葉ができた。それも著作権的には全くの黒という認識の言葉として普及している。
そもそも、著作権をそんなに広い権利として認めるべきなのだろうか?という気がする。
二次創作の中にはまれに原作を凌駕するほど優れたものがある。それが世に出されないのは大きな損失ではないか。
ソフトウエアの世界は二次創作だらけである。それでもビジネスは回る。優れたエンジニアが優れたソフトウエアを書いて、それで食べて行けてしまう世界ができている。
今はSNSの中で「書き物」が同じような流れに乗ろうとしている。SNSではリツイートやシェアなどの形でコンテンツが流用されるのが当たり前になっている。長い目で見ればあらゆるコンテンツがソフトウエアのように自然に融合する時代がくるのかもしれない。
そういう観点で見たとき、著作権で守られる期間についてもっと議論していいのではないだろうか?
創作の世界が孤独な世界であるという認識があるうちはまだ伽藍のなかである。
ん?バザールの萌芽がコミケなのか?あれは自主的に自由を求めようという賑やかな胎動なのかもしれない。
やっぱり著作権は考え直すときが来ていると思う。
このことについてはもうちょっと考えを深めてみたいと思う。
今日の読書
1000本ノックを今日もやる。
さて、もっと本を読もうかな。