思念波

手紙

投稿日:

文通って言葉、最近聞かなくなったな。もっとも電子メールが手元のケータイから送れる時代にわざわざ手紙を書くってのもないか。
十代の頃、何人かの人と文通をしたことがある。雑誌によく文通コーナーみたいなのがあって、文通相手を募集していたもんだった。僕はそれを見てコレハという相手に手紙を書いた。どういうわけかその頃は絶対に返事が来る自信があって、なぜかはずしたことはなかった。
文房具屋で気に入ったレターセットを探すのが好きだった。そしてそれに文字を書いていくことも大好きで、たぶん3週間に2往復くらいは手紙を書き、返事をもらっていたような気がする。よくもそんなに書くことがあったものだと今では呆れるくらいだ。
今考えて見れば、なにか書きたくて仕方がなかったのだと思う。
小学校の低学年の頃、参観日の国語の時間に詩を習った。その場で書いた詩はクラスの何人かとともに選ばれて張り出された。内容はなんとなく覚えているが、登校時の景色で感じたことを素直に書いたものだった。自分にとっては特別でもなんでもなく、ただ思ったとおり書いたものが母親たちの前で認められたのはうれしかった。
小学生の間、作文はずっと得意だった。3枚くらいはいつでも書けたし、そのころから原稿用紙の最後のマスに丸がくるようにぴったり文章を書いたりする遊びをしていた。
6年生の学年末頃に「自殺について」という社会派な作文を書いたら、それが地元の新聞に載って、掲載時に中学生になっていた僕はいきなり最初から担任に誉められて驚いた。
詩のようなものもたくさん書いた。中身が無地になった本(たぶん今でも売っているんだろうな)に綴った詩は、たぶんどこかの本棚に今でも収まっていると思うけど、今は気恥ずかしくて開く気にならない。
そんな風に書くのが大好きだったのだ。
大人になって、書くということの重さを感じるようになった。
手紙がなにより重たくなった。なにかきっかけがあったというわけではないのだけれど、手紙を受け取った側の気持ちをより深く考えるようになってなにか怖さのようなものが沸いてくるようになったのだと思う。
仕事で書く文書は、公式の場に出すものは比較的楽に書くことができる。わりあいさっさと書いてしまってあとは適当にフォローすればいいと割り切っている。だけど、これが仕事でも個人を相手に出すメールとなると筆(キータッチ?)が重くなる。たかだか10~20行くらいの一通のメールを書くのに数時間かかってしまうこともある。
この違いがどこから来るかといえば、公式の文書には本音を書かないからなのだ。上司ウケしそうな建前ばかり並べるなら楽なものだ。
手紙(メール)を書くときには、表面的なものだけではなく自分の感情までわかってもらいたいという欲求が生じるものらしい。文字だけでこちらの感じていること、思っていること、考えていることを表現するというのはなかなか難しいものなのだ。
そして、それを出してしまった後には相手がどう受け取るだろうという苦悩の時間が待っている。これは僕にとって本当に苦痛な時間だ。なぜなら出してしまった手紙はもう修正が効かないのだから。
あそこはこう書いたほうが良かっただろうかとか、一言足りなかったかもしれないとか、返事が来るまではずっとそんなことで胸苦しい思いをしなければならない。
ラブレターを書いたことのある人ならたぶんそんな気分を味わったことがあるだろう。
ブログへのコメントもこれに似ている。自分でエントリを書くのは比較的ましだ。おかしいなと思ったら修正することだってできてしまうのだから。しかしコメントはそうはいかない。書き込みのボタンを押すのには結構勇気がいるものだ。
そんなに負担なら書かなければいいではないかと自分でも思うのだが、書かずにはいられない自分がいるのも確かなのだ。
僕はきっとこれからもこんな胸苦しさに耐えながらいろんなことを書いていくだろう。苦しい気分があっても、文章をひねり出してそれを磨いていく作業はやめられない。
やっぱり書くのが好きだから。

Follow me!







書いた人

nyao

nyao

本を書きたい人にITの基礎から学んでもらって、Kindleで著者デビューするまでをサポートします。 ITってよくわからないという人のために勉強会をやっています。 「読書と編集」という屋号でお仕事をしています。

プロフィールを表示 →

-思念波

Copyright© NyaoPress 読書と日常 , 2020 All Rights Reserved.